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M叔父さん、ありがとう・・・ [言葉の花束]


叔父のお通夜・告別式に行ってきた。

亡くなった叔父は、母のすぐ下の妹の連れ合い。84歳だった。

斎場に着いて目に飛び込んできた叔父の遺影は、片手にパイプを持ったポーズの写真で
目を細めて笑っている、実にM叔父らしいものだった。

叔母の姿も見えた。途端に涙が溢れてきた。

叔母がやってきて私の肩を抱き、耳元でこう言った。

「泣くなPekoちゃん!この叔母さんが泣いてないんだから。」

しょっぱな、怒られてしまった。

とっても勝気で負けん気の強いこの叔母は、人に弱味を見せたりは絶対にしないのだ。

  

パーキンソン病と認知症とで自宅での世話が困難になり介護施設に入ってから1年7カ月・・・

施設に入所するまでにも胃がんの手術や転倒による骨折(大腿骨2度・手首2度)などで、
何度か手術をしてきた叔父。

その時には医者も驚くほどの驚異の回復力で立ち直ってきたのだが・・・。

入所後、飲み込む力もなくなり胃ろうとなってからは
発熱や肺炎で病院と施設との行ったり来たりを繰り返していた。

叔母は今回の肺炎でもまた今までのように回復して施設に戻れると思っていた。

が、容体は急変した。

叔父の生命力も限界にきてたようだ。

最期は苦しむこともなく、眠るように旅立っていったそうだ。

  

お通夜も告別式も、近親者だけの家族葬のようなものだった。

もしもの時にはそうしたいと、叔母は以前から言っていた。

が、75歳までTV&広告業界でバリバリ働いてきた叔父なので
それだけで済ますわけにもいかず、仕事・会社関係の人たちとは後日お別れ会をするそうだ。

この叔父叔母には私たち甥や姪も多くが世話になり、関西や四国からも駆けつけた。

私の兄も実家の代表として田舎から駆けつけた。

皆それぞれに叔父との思い出があり、通夜ぶるまいの席では次から次にいろんな話が出て
とてもお通夜とは思えないほど賑やかなものになった。

賑やかにしていたのは私の兄と姉だったかもしれないが・・・^^;

叔母は 「パパは賑やかなのが好きだったから、喜んでるわ。」 と言ってくれたが
母にそのことを伝えると、「叔父さん、びっくりしたんじゃないの!?」 と母は言った。

  

私も叔父には可愛がってもらったので、いろんな思い出がある。

特に寮生活をしていた学生時代にはいろんな所に連れて行ってもらってご馳走になった。

六本木瀬里奈で鉄板焼きステーキをごちそうになったり、赤プリのバーに連れてってもらったり
横浜中華街やニンニクたっぷりの韓国焼肉屋さん、美味しい美味しい手打ちうどんのお店などなど・・・
カウンターでお寿司を初めて食べたのも叔父に連れてってもらったお寿司屋さんだった。

実家が坂の上と下、お隣同士のようなものだった叔父と叔母。

叔母の二人の兄とも幼馴染みの仲良しで、しょっちゅう一緒に遊んでいたそうだ。

その伯父たちと遊びながらも、その頃から叔母を嫁にすると決めていた叔父。

叔母がまだ小学生の頃だ。(笑)

そんな話を叔父からは何度も聞かされた。というよりも、その話がおもしろいから私が何度も言わせたのかも。(^^ゞ

私から見ても、叔母のことが可愛くてしょうがないという感じがいつもしていた。

2年ほど前、私が遊びに行った時、言葉が思うようには出なくなっていた叔父が
しきりに私に見せたい写真があると言って、アルバムを探し始めた。

叔母にも、もちろん私にも、何の写真なんだか、どのアルバムなんだかわからずに
次から次にこれでもないこれでもない・・・と探す中、叔父が「これだ!」と言って
私に見せてくれた一冊のアルバム。

それは新婚当時の、初々しくも本当にチャーミングな叔母が写ったアルバムだった。

目を細めて自慢げにそのアルバムを私に見せてくれた叔父。

私は見せてもらった後、「ごちそうさまでした!^^」と言った。

叔父はますますその目を細めて満足そうにしていた。

   

兵庫県に住む叔父(鎌倉叔母の下の妹の連れ合い)のお葬式の時には
M叔父の車椅子での移動介助などを手伝った。

葬儀が終わった後も、私はしばらくM叔父たちと時間を過ごし、そこでも食事をご馳走になった。

食後、会計を済ませに行った叔母を待ってる間に叔父が私につぶやいた言葉が私は忘れられない。

「人生って、きついもんだなぁ・・・」

業界の第一線で活躍してきた叔父から初めて聞く弱音・・・

いろんなことができなくなっていく、うまく喋ることもできなくなっていくもどかしさと
叔父はどんなに悔しい思いで闘ってきたのか・・・
胸がしめつけられる思いであった。

介護施設に入ってからは、叔母に会いに何度か鎌倉に出かけて行ったが
叔母からの話を聞くだけで、叔父には会わないままとなってしまったけれど・・・。

そんな思い出がいろいろとあったが、しょっぱな叔母に「泣くな!」と怒られてしまったので
皆の前で叔父の話をするのはやめた。

話せば絶対にまた泣いてしまうから。

 

お通夜の夜は、一緒に夜伽をするべく姉と相談して泊りの支度をしていったのだが
その夜は一人息子である長男が付き添って、男同士の会話をすると言う。

私と姉は、兄や兵庫の叔母と一緒に斎場近くのホテルを取ってくれるというのでそこに泊った。

前日に自宅で一晩叔父の添い寝をした叔母は、
お通夜の夜は長男に任せて、その嫁と19歳の孫(男子)とで自宅に戻って身体を休めた。

叔母の長男家族は名古屋に住んでいる。

なので施設入所までの叔父の介護は叔母が一人で頑張った。

本当によく頑張ったと思う。

そんな中で叔母は、徐々に徐々に何度も何度も覚悟を決めていったのだろう。

かなりの修羅場もあったと聞かされた。

でも叔母が倒れたりすることがなくて、本当に良かったと心から思う。

  

次の日の告別式も、初七日法要と共にすべて無事に終わり、散会となった。

会葬客を見送る中、姉と一緒に帰ろうとしていた私に叔母はこう言った。

「叔父さん、Pekoちゃんのことはこんな歳になっても可愛い可愛いって、可愛がってたからね~
 こんないいオバサンになったアンタでも可愛い可愛い~ってね。^^

叔母さんの言葉は周りにいた人たちの笑いを誘ったが、私の目からは堪え切れずに
涙がボロボロとあふれてきてしまった。

叔母さん、反則だよぉ~~最後にそんなこと言うなんて・・・
叔母さんが「泣くな!」って言うから必死で我慢してたのに~~~

「ほんとにこんな私のことを可愛いって言ってくれるのは叔父さんだけだったよぉ~
 貴重な存在だったのに~~
 もう私のことを可愛いって言ってくれる人、いなくなっちゃったよ~~」

泣きながらそう言うと、皆は「ヨシヨシ・・・」と言いながらもまた笑った。

しょっぱな叔母に怒られたものの、最後には叔母に泣かされてしまった・・・。

  

実際、「Pekoは可愛いなぁ~^^」「おもしろいなぁ~^^」って、
おバカな私の話でもいつもおもしろがって、楽しそうに聞いてくれる叔父だった。

そんな叔父が私は大好きだった。

M叔父さん、ありがとう。本当にありがとう。

私は何度も何度も手を合わせて叔父さんにお礼を言い、お別れをしてきた。

 

M叔父さん・・・

たとえ、私がお婆さんになってそっちへ行ったとしても、
また「可愛いなぁ~」って、「よく来たなぁ~」って・・・

言ってね、叔父さん。。。
 

 


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コメント 4

タケノコ

謹んでM叔父様のご冥福をお祈りします。
業界人だった叔父様だけに連れて行ってもらったお店なども有名店だらけだったのでは。。。
叔母さまにも介護お疲れ様でしたと言いたいですね。
by タケノコ (2010-04-17 18:37) 

yutakami

M叔父様は私の先輩だったのですね。
他所ながら、謹んでM叔父様のご冥福をお祈りします。

by yutakami (2010-04-17 22:41) 

Peko

※タケノコさん、叔父だけでなく叔母にまで温かい言葉をどうもありがとうございます。
本当に叔母もよく頑張ったと思います。

連れてってもらったのは有名店だらけ・・・というわけではなかったのですよ。
中華街のお店や焼き肉屋さんとかは、綺麗じゃないけど美味しい、っていう感じ。
きたなシュランとまではいかないけどね。^^ 楽しませてもらいました。
by Peko (2010-04-20 18:11) 

Peko

※yutakamiさん、どうもありがとうございます。

叔父はテレビ局開局時代に働き、広告会社でも頑張った人です。
クリエイターではないと思いますが。
日本宣伝賞の吉田賞なるものの賞状が飾ってありました。
よく知らないのですが、叔父が頑張った証になるでしょうか・・・?

私が学生時代にバイトをさせてくれと頼んだところ、田舎育ちの私を
口八丁・手八丁なやつらばかりの中に置くことはできん!と、即、断られました。
そんな思い出もあります。
by Peko (2010-04-20 18:25) 

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